2017年5月10日の断片日記

▼連休の間に短歌を詠んだときに、ああ、と思って今までの自分の短歌を並べてみたら見事に「説明」だらけで笑ってしまった。何かの行間を補う31音。技術的なところについては、少し前にいろいろ本を読んだりテレビ番組を楽しく観たりしたことを思い出す。ぜんぜん身につかなかったんだよなあ、なんて。技術や技法は自由にあるいは的確に表現をするために絶対必要なものだろうと思う。そういう意味できっと僕の作ったものはまだまだ改良の余地があって、きっと作品としてはおよそほめられたものではないのだろうと思う。それでも作っている最中にすら説明だなと思っていたとしても「31音で表したい」風景や心象というのがあって、僕はそれとそうでないものを分かつものが何なのかを知りたいが故に詠んでいるところがあるのだろうと思う。自分の行動を説明したり理由を探したりしたがる性癖がこういうところにも顔を出しているのだなと思うと少しおかしくなってしまう。
 
 
▼先日の日記で少しふれたとおり、WZ!の方に『ワンダフルワールドエンド』の記事を上梓した。本当は今月の映画エントリのうちの1作品だったのだけれども、3000字くらいになったので単独のエントリとした。
wowee-zowee.hatenablog.com
 
それで作品がもっている肯定の温度は、やはり大森女史の音楽(それは映画の音楽を…というレベルではなく音楽そのものが映画である)によるところも大きいのだろうとは思っている。5月7日の日記で彼女の肯定について言いたいことはぼんやりと言ってしまった気もするけれど、もう少しだけ。彼女のライヴ映像を何で繰り返し見てしまうんだろうと考えた時、そこにはいろいろな理由があるのだけれども、一番はこの人が鳴らしているのはブルーズだからなのでは、と思うに至った。特に最近の「音楽を捨てよ、そして音楽へ」でのたたずまいと初期から続く「さようなら」でのお別れがそういう気持ちを高まらせる。
 

大森靖子「音楽を捨てよ、そして音楽へ」at ARABAKI ROCK FEST.16

「んなわけあるわけねーだろ」が最高なんだ。そうなんだよ、そんなわけないんだよ、ぜんぶ、ぜんぶ。そして客にマイク預けるところだって、なんというか演説みたいなもんだよね、これはさ。音楽は魔法ではない、音楽はお客さん、お前ら自身が音楽で、お前らには魔法はない、だから「魔法が使えないなら死にたい」でも、音楽は…。
 

【謎の感動】大森靖子 LIVE @ TIF2013 【ニコ生コメント付】

それでもやっぱりこれに戻ってきてしまうところがある。これを初めて見たときになんだか分からないけれど、自立を促す肯定を全身に浴びたような気がして、そこから良く聞くようになったのだった。冒頭2曲の後の「ハンドメイドホーム」は展開として見事だし、「君と映画」はいつだって名曲だし、決してこの人を観に来たわけではない観客たちの何かをすくいあげたうえでそれすらもエネルギーに変えたような「さようなら」である。それを可能にしたのは彼女の技量と楽曲のブルーズさではなかったかと思うのだった。