2017年1月21日の断片日記

▼批評とは竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか、という小林秀雄の言葉があってとても好きなのだった。自己投影の可能性を、つまりは対象を語ることは己の何かをそこに仮託することではないのかという根本的・根源的な部分に向けられた懐疑の視線、そういうものをはらみながらも、それでも我々は何かを語らねばならぬのだ。そんなことを言われているような気がして、頭に浮かぶたび、書物でなぞるたびに背筋が伸びる思いがする。


▼僕は確かに批評というものが見せてくれる乱反射によって救われたところがある。だから最近どこかで大衆の意志を批評家が無視していておかしいみたいな話を見かけて一体何を言っているんだ?と思ったのだった。それは権威的なものに対する疑念や怨念めいたものが、筋を違えたところで噴出しているだけなのではないのか。批評は、僕にたくさんのものの見方と見ることの可能性を教えてくれる(ちなみに、見ることの意味を教えてくれたのはオディロン・ルドンで、その重要性を教えてくれたのは君だった)。その点で考えるならば、自分の意見と違った時こそ、そこにおもしろさがあるはずで、加えてそれが真に批評ならば正しいとか正しくないとかそういう地平にはそもそもないのではないかなどということを考える。第一、大衆なんてそんな高尚なもんでもないでしょう?というか大衆に対する信頼感なんていったいどこで身につけられるんだ、とも思うのだ。だって自分がその一員なんだぜ。「俺たちが正しい」なんて、言えないよ。僕には。
 
 
▼世界解釈の鍵を渡してくれるという意味において、日記は評論に似ているところがある。日記は不思議だ。僕は日記を書くのも読むのも好きだ。その人のことが、その人のために、おもにその人に分かる言葉で書かれているものが好きだ。僕は「自分のために書かれた」言葉たちから、読み手である僕の世界を拡張する何かを受け取ったことが何度もある。その書き手がそれを書くことで救われているのだろうなと感じる時、その浄化の空気に誘われるようにして僕の魂のはじっこが眠りにつく。そういうことを何度も何度も経験している。もちろんそれは他でもない僕が書いたものにも自ら救われているということも意味している。最小限の行動と、そこに渦巻く大量の「想い」を記録し、なぜを考える。それがアングルズを生み、昨日の僕から今日の僕へ、そして明日の僕へ渡されていく。そのタイトロープで僕はなんとか繋がれ、保たれている。それは自身の辛さを異化して何とかやっていくという効能以上に意味のあることなのだ。だから、自分語り、おおいに結構じゃんねというところまで話は向かっていく。ただしそこには、自分に対してあるいは自分が書いているものに対して「全部まがいものかもしれないよね?」という懐疑の念がなければならない。僕はいつだって、本当のことは自分にしか分からないように書いているつもりだけれども、同時にこの中に本当のことなんて何もないのではないかとも思いながら書いている。


▼その立ち位置から眺める限り、あなたの「生活」ではなく「人生」が言葉として漏れ出していくというその行為はとても尊いものであり、それだけで僕ら市井の日々は肯定されてしかるべきだとそう思う。僕ら、なんていっても互いの間は実は何光年も離れているのではないかしらというのはあるけれど。


▼そういうわけで、ふわふわと遊泳したりぼわ~と公転しているとき、他の惑星が近づいてくるとときどき触りたくなる。でも触れてはいけないものもなかにはあって、それを外から判断するのはとてもとてもむつかしいことだと思っている(でもこれはすごくえごい考えなのだ)。でも今日ある人がふと近づいてきて、僕と君を紙のようなものでくるんでくれたようだった。僕だけでなく、君をも。僕はそれが心底うれしかった。


▼僕と君の本当の日々は、2人にしか分からないやり方で、しかも互いに知らないふりをしながら進んでいったものだった。僕が差し出し続けた手を君が握ったり離したりしながら、8年かけて、少しずつ。ほんの少しいつもより強く握り返そうとしたそのことが怖くなって、そしてそれよりも恐ろしいものを自分のうちに飼っていたことに気づいて、その手を初めて引っ込めてしまったのだった。後には暗闇しか残らなかった。そうして歴史には刻まれない、あるいは最初からなかったかのような状態になってしまった。それでもそれらはすべて紙にくるまれた。僕と君が存在した可能性が、そこに残った気がした。
 
 
▼ところで、あの控え目な花たちが何か言いたげなのだ。でもそれはとても小さくか細くしかも悲しげな声だから、もう少しだけ待ってみようと思う。だから今は、近づいては離れていったあの惑星と交信しておこう。
 
 
▼了解。敬意受取。こちらも風が強い1日でした。くまさん(だいすきなのだよ)によろしく。オーバー。

2017年1月19日の断片日記

▼季節の向こう側から、あの人に会える機会が舞い込んできた。僕はどうすべきか迷った。迷いの理由は明らかで、僕のこの現状を話せるのも、また理解してくれるのもこの人だけなのだが、この人にだけは話してはいけない理由があるからなのだった。甘えてはいけないよというのもその一つだけれども、もっと根本的な部分で僕は口をつぐむしかないのだった。それでも…その時はどうすべきかではなくどうしたいかを考えて、会うことにした。
 
 
▼慎重に言葉を選んで、その場にふさわしいふるまいをして、役割に徹したつもりだったのだけれども、端々から漏れ出してしまっているのには気づいていた。そしてそれらがそのたびに浄化されていくことにも。とてもかなしい感じがした。それをぬるくなった珈琲で流し込みながら、話し続け、聞き続けた。
 
 
▼かわいそう、とあの人が言った。前後の文脈を全て消し飛ばす勢いでその声と音が僕の耳に入ってきた。あなたは、かわいそうなひと。思わず笑ってしまった。どうしてこの人たちはこうやって、たった一言で―それもどこにでもあるような言葉で!―僕のことを殺すのだろうか。まいったなあなどと呆ける僕を見て、あの人も申し訳なさそうに笑っていた。僕は君のことを考えた。正確にはずっと考えていた。考えていたことに2時間ぶりに自覚的になっただけだった。
 
 
▼僕はかわいそうな人なのだろうか。それは被害者意識丸出しで、なんだか受け入れがたいことのように思えた。実際、僕が内側で育てていたあの黒い塊は他でもない僕のせいであそこまでぶくぶくと太ってしまったのだから。それでも、本当はかわいそうだと言って欲しかったのかもしれないなと思えるくらいには、素直にその言葉を聞いていた。言ってもらって「そんなことないんですよ」とかなんとか言うために、かわいそうって言ってもらいたがっているのだ、きっと。まったく醜悪な話だと思いながらも、その福音を受けた僕はするすると役割に戻っていった。壁に覆われた狭い道から開けた道へ出た感じがしていた。一本道であることには変わりないのだけれども。


▼帰り道、駅前の花屋にまた立ち寄って眺めるだけ眺めていこうと考えていたのだけれども、改札を抜ける少し前から耳元で「The Sound Of Someone You Love Who's Going Away And It Doesn't Matter」が流れていてとんでもねえなと思っているうちに住宅街に入り込んでしまっていた。部屋に着いて、食事をする気力もなかったのであの人がくれたチョコレートを2粒食べた。お酒の入った、たぶん高いやつだ。僕の舌、ばかだからこういうのよりコアラのマーチとかの方がいいのよねとかうそぶいていたらとびきり美味しくてびっくりした。だから2粒食べたのだった。花は元気に、それでも控え目に咲いているだろうかと思った。実は例のお菓子の5つ目を、ついに買ってしまっていた。
 
 
▼こうやって分析的にふるまったりして僕はバランスがとれていますよというポーズをとってみるけれど実際には分裂してぐちゃぐちゃでもっとどうしようもないんだ、というのは分かっているのだった。でもこうして書き出すことで異化してしまえば、何とかやっていける。これはそのドキュメントであり、営みなのだ。日記。こんなことになってしまってからは、明日の僕に向けて書いているという側面が強くなっている。昨日の僕が今日の僕に全く新しいパースペクティブや、正しい(らしい)解釈の術を渡してくれる。それらをつないでいくことで、僕は僕を保つ。これは途方もないことだがとても大切なことだ。僕らは、本当は毎日死んでいるのだから。