2017年4月9日の断片日記

▼前日の晩に久々に会った友人と食事をする。しばらくの間地理的に離れてしまっていたのだが、たまたまこちらへ来ているとのことだった。待ち合わせの駅の改札を抜ける。降りたことのない街の印象ってこの風景からスタートするんだよななどと考える。初めてバウスシアターに行ったときも、吉祥寺の街のことなんて結局ほとんど残っていなくて、駅の風景だけがなぜだかしばらく頭から離れなかった。大学生くらいの男女が口づけをしていて、そこだけ静止画のようだったのを今でも覚えている。さて友人は当時とあまり変わりなく、僕もそれと同じくらい変わっていなければいいなと思った。店に入り、ああでもないこうでもないと話しながら2つのことを考えていた。1つは自分ひとりだと食べないものって本当に多いんだなということ。もう1つは彼も含め僕に年下の友人が多い(あいや、友人は少ないのだが)のは、「役割」に袖を通したコミュニケーションがそれなりに機能していたことのあらわれなのだろうなということだった。
 
 
▼人見知りが過ぎて付き合いも悪いし、そもそも「親殺し」というか「下の世代は上の世代を越えていくべきだ」みたいな謎のマチズモが自分の中にあって、いやマチズモじゃないな…どちらかといえばモラトリアムがそういうものを前提とした上でのまどろみの迷宮であってほしい、ただただ自意識に沈澱するだけでなく社会や他人の「わたしのせかい」と接点をもった何かであってほしいというロマンチシズムめいたものがあるおかげで、自分の中で上の世代というものはある種の仮想敵のような位置づけになっているのだった。そりゃあ相性が悪くなるのも当然というわけで(仕事はうまくやるけれども)。加えて見過ごせない要素としては、普段子どもやアルバイトの学生たちと相対していると当然ながらこちらは歳を重ねていくのに接する対象ばかりが代謝を続けて「新しいティーンエイジャー」とか「新しい大学生」になっていくというのもある。だからその都度こちらは経験などをフル動員して「役割」をアップデートしていくわけで、そりゃまあ上に対するそれよりも下に対するそれの方が多少はうまくいくのかなという思いがある。もちろん、接する絶対数の問題もあるだろう。
 
 
▼同い年とか同期の存在が苦手な理由はその「役割」を着づらいからなのだろう。あとは相手に年齢や入社時期などの貧弱な共通点のみで仲間意識に似た何かを持たれるのがひどく嫌だというのもある。そういう勢いで来られると属性と個人とがうまく切り離せなくなって少し混乱しながら応対することになるので、疲れてしまう。そういえば大学生の頃、大学生きらいだったもんな…。
 
 
▼翌日は環境が変わることに関連する休みをもらっていたので出かけて桜を見に行く予定だったのだけれども、雨模様だったのであっさりと心が折れてしまった。そういえば去年までと違って今の僕には桜を「見なければいけない理由」がないのだった。果たして桜が好きだったのか、なんだったのか。途方に暮れた僕は、今自身の周りで起きている喧騒を少しだけ遠くにすることを考えながら食事をして、その後は映画を見たり眠ったりしながら過ごしたのだった。
 
 

2017年4月7日の断片日記

▼湿度が高い。雨が落ちなかっただけマシだなと思いつつもそれなりに上がった気温と強い南風に嫌な顔をしてしまう。のっぺりとした空気が、季節が進んでいることを感じさせる。冬が曖昧に終わって、春もきっとぼんやりと終わっていくのだろう。そして新緑の季節を挟んでまたやってくるあの憂鬱な日々へと流されていく。あじさいの季節といえば気分も上がるが、それでもあの空気と雨模様の前に、僕はいつだって一人になりたくなってしまうのだ。
 
 
▼子どもたちから、僕が与えたのとはまた別に学校の課題だという作文などの添削を依頼されることが少なくない。僕は責務を果たしつつこれぞ役得とばかりに個人としても楽しく読ませてもらうことにしている。今日届けられた少年のそれには、彼がふだん読んでいる物語たちからの影響が随所に見られた。「伝わる」ように細かい表現の修正を提案しつつ、僕個人としてはとても好きな文と内容であるということを伝える。そして、「文体を外から見るのは僕のような人間に丸投げして、今は文体に書かされることを楽しみなさい。」ということを14歳に「伝わる」表現で話した。(聡明な彼のことだから伝わっていると信じたい)
 
 
▼僕がローティーンのころに僕の文体を読んでくれた大人は、東京のラジオのパーソナリティだった。最初は当然ながら書いた内容について話してくれていたのだけれども、送り続けるうちに(当時はハガキだったなあ)、いちどだけ文体について触れてくれたことがあって、それはラジオネームを越えた僕個人の話のように思えてとてもどきどきしたのを覚えている。もちろん内容についても何を書いても面白がってくれていた。ディレクターさんと、パーソナリティが。つまり、大人たちが。僕はその当時文を読むのも書くのも全然好きではなかった。それが好きになってきたのは大学生になってからだ。それでも、その空白の期間の間も「大人たちがなんだか楽しそうに読んでくれていた」というその事実だけはずっと心に残り続けていた。きっとそれは、子どもたちが書いてきたものに接する際の基本的なマインドセットに影響を及ぼしているのだろう。それにしても、春だ。お別れが少しずつ迫っている。