2017年7月4日の断片日記

▼「人生を変えた」ってなんなんだろうな、て思う。それと出会わなかったらどうなっていたのかなんて僕には分からないのに「変わった」なんて軽々しく言えないよ、なんて。それと出会うことで「それまで」と「これから」が分かたれたなんて確証をどうやって持てばいいのだろう。もしかしたら別の何かと出会っていても、今と同じようなことになっているかもしれないじゃない?と考えてしまう。運命論者というほど極端ではないけれど、例えば過去に戻ったとしてもそれが僕という人間である以上、現在の僕と大差ない状態につながるような「選択」を繰り返すだろうという思いもあるしね。(こんな風に考える根拠を長年探っているがそれはまた別の話)
 
 
▼では、そんな僕には何を言えるのか。それは「今こうなっている」ということだけだ。それが何かの影響で人生が「変わった」ことによる帰結なのかどうかは分からない。僕は「自分がなぜそれをしている(いた)のか」を考えるのを愉しみにしているたちの人間であるからして、「それまでとは異なった今があるのはあの時それに出会ったからだ」すなわち「それの影響で出会い以前とは異なる道を歩むことになり、今ここにたどり着いたのだ」という図式で考えるよりは、「あの時それを選んだ(出会った)理由が今の地点から説明可能になる」という形、つまり「出会い以前/以後での変化」ではなく、「出会い以後と今」という線のつなぎ方のほうがしっくりくる。(そうした後者のようなあり方を仮に「変わった」と形容しているのだとすれば、いささか繊細さを欠いた物言いだといえるだろう。)
  
 
▼他者のためから自分のために、あるいはその逆、のように生き方が変われば人生は「変わった」と言えるのかもしれない。君と出会って、おそらく出会わなければしなかったであろう選択をたくさんしたけれども、そのことによって人生が変わったとは思わない。その選択の間際に考えていたこと、それはもともと僕の内部にあったものがとても極端な形で表出したものなのだ。でもそれが突き詰まっていけば、生き方が変わった可能性はあるだろう。必ずしもその変化が歓迎すべきものなのかどうかはわからないが。いずれにしても僕らは毎日違う日々を異なった肉体で生きているはずだ。昨日とは少し違う今日を静かに重ねていく日々。劇的な変化がなくても、平穏を、平坦を愛したい。そしてそう思えるほどには安穏とした人生を送っていられることを(ちょっぴりの辛さと深い哀しみは別として)感謝する。誰に。僕に。
 
 
中村一義が「犬と猫 再び」で「僕の人生はバラ色に変わったー!」と鳴らしていたのは、その数分前に「全てが人並みに うまくいきますように」と祈りをささげていることからもわかるように、ある種の決意表明のようなものだと僕はとらえている。あるいはすべてが人並みにうまくいけば人生はバラ色に変わるのだというつつましく尊い叫びのようなもの。その前では本当に人生が変わったのか否かは些細なことである。のちの「主題歌」へと続く確かな福音であったことが重要だ。つまりは僕が「僕の人生はバラ色に変わったー!」に感動するのも、人生が変わった!ということではないということなのだった。
 
 
▼そんなことを考えていると、君とあの娘の人生がわずかに交錯するのが見えた。でもそれは僕がいなければ、見なければそうならなかった参照点である。その一方で僕が対象を見たことによって生じたミッシングリンクも存在するはずで、でもそれは失われてしまっている以上、他の誰かがそれを見なければ存在しえないものであり、存在が確認されることによって存在しないことが確認されるという構造になっている。ではすべてを見ているのは誰だ?神様を持ち出すのは簡単だ。確かに僕のことは僕の神であるところのぼくが見ている。そして神様は瞬間にいる。瞬間は永遠だ。ゆえ、神様は永遠の地平からすべてを見通していると考えてもおかしくはない。でもそれよりも手前のところで、誰かが見ることによってこの世界の大部分は成立していて、誰も見ていないところは真っ暗なのだというところに立ち返るのであれば、きっと神様はすべてではなく、誰も見ていないところだけを見ていて、すなわち神様が見ているところに瞬間の鏡像めいたものがあるのではないか。僕らがそこを「見てそうなった」ときのそれは瞬間の残り香であって、やはり僕らは瞬間にたどり着くことはできないのだ。
 
 
▼人生が変わった場合、変わる前の人生は誰が引き取るのだろう。神様がうやうやしく保管しているのであれば訳ないが、だがしかし世界は誰かがどこかを見ていることによって「そうなっている」ものが大部分なのであれば、果たして変化前人生の管理人は誰だ。僕らは自分の人生しか生きられないはずだが、自分の人生は見られたその時から他人の「わたしのせかい」にも存在している。僕らが生きている人生は、君たちが変わったと言っている人生は、本当に自分が見ている「わたしのせかい」なのだろうか。

重ねられた生活 20170624~630

0624(Sat)

うわあ終電に遅れるうと急ぎ足の視界の端で大学生の男が嘔吐していて、それを友人らしき男が介抱をしていた。憐れみと励ましの念を送っておいた。どちらにかは分からない。終電には間に合った。
 
部屋に戻って花の手入れをしようと思ったら、そのうちの1本がもうほとんどダメになっていた。取り除く。哀しい。夏場の切り花はそんなにもちませんぜ、とのことだったが、たぶん僕の管理の仕方も良くないのだろう。その他のやつらはというと、初日からはさすがに陰りがあるもののまだ元気そうではある。
 
紫陽花を見に行きたいと思っている。今度近くで仕事があるので、新宿の金を払う公園あたりで見てこようかな。 
 
 

0625(Sun)

『Breaking Bad』がようやく最終Sまで来た。ダレることなく次から次へと登場人物たちが追い詰められていく様は本当によい。ブルーレイのBoxセット欲しいな…。
 
決断のための動きをひとつ進める。これに関することをしていると2月のことを思い出す。
 
眠る前に青の紫陽花の花言葉を調べる。「忍耐強い愛」だそうだ。言い訳の準備と言うか、自分のことを美化するのに余念がないなと自嘲。図らずも、ではあるが。
 
 

0626(Mon)

また体調を崩してしまった。仕事と年齢のせいだ。
 
行きの電車で停止信号。何となく本から顔をあげたら窓の外に紫陽花があった。こういうことをされると、決まって君のことを思い出してしまう。
 
眠る前に「スーパーマリオブラザーズ3」をやる。ぬるぬる動くので、おじさんはすぐ死んでしまうのだった。げらげら。

0627(Tue)

目が覚めて、シャワーを浴びて朝ごはんもそこそこに、ビオフェルミンとその他いくつかの錠剤を流し込んで、急ぎ気味に部屋を出て行く。各駅停車を1本やり過ごして、急行に乗る。いつもの車両。大学の広告。本。乗り換え駅。エスカレーターは使わない。お手洗い(お花つみ)。待合室あるいは列の後ろ。10分。本。空調の弱い車内。最寄駅。エスカレーターは使わない。帰りはその逆。終電。くたびれた男と今日の余韻を感じている女。最寄駅。そして少しだけ遠回り。本。部屋。花の手入れ。お掃除。Netflixを見ながら食事もそこそこに、サプリメントその他いくつかの錠剤を流し込んで、おふろにどぼん。勉強の記録をつけて、日記を書いて、歌を歌って、明日の準備。おやすみなさい。目が覚めたら、体調良くなっていますように。
 
 

0628(Wed)

朝、長く連れ添ったiPodが逝った。風の強い日に君を迎えに行ったとき、飛んできた木の枝をよけようとしたはずみで地面に落として以来、じわじわと調子を崩していたので驚きはなかったが、悲しかった。そういえば先月はNexus7だったな(現在のパートナーはずっとご機嫌ナナメで困ったもんだ。ねくさすは名機だったよ…)。今年は電子機器がどんどんダメになっている。次はPCかも。10年近く動いているし。またバックアップとろう…。
 
それにしても熱が下がらない。仕事の合間にふらふらと新しいiPodを買いに行く。行き帰りに自閉できないなんて、我慢できない。好みの色が品切れだったけどもう何でもいいやと金を払う。服を買いにいく軍資金を下ろしたせいもあって口座の残高に不満顔。でももうすぐボーナスだしがまんがまん。まあそれも「決断」したらほとんど飛んでっちゃうんだけどね。
 
ぼうっとした頭で仕事をしていた。よく笑う人と話した。もっと文化的に生きたいと思った。早く帰りたかったのに帰れなかった。それはもうずっとそうなのだけれども、今日は特に帰りたくて、でも残念な気持ちになる余裕もないほどに時間の経過とともに具合が悪くなっていった。「おつかれさまでしたー。あー、××さん、いらっしゃいませー」部屋に続く交差点でツイキャスをしている女の子がいた。ワンダフルワールドエンドだね。京都に行くたびに「外国人観光客が撮っている写真のどれかには確実に自分が写りこんでいるはずで、今頃世界中のどこかのインスタグラムに僕の姿もアップされているのだろうなと思うとヘンな気持ちになる」ということを何年も前から考えていたことを、なぜかその女の子を見て思い出したのだった。
 
 

0629(Thu)

知り合ってまだ1カ月だというのに若者からプライヴェートな相談を受け付けてしまい、それに真剣に頭を悩ませるなど。若者というのはそれだけで良いと最近は思っているところがあるので、去りゆく老兵にできることは(求められる限りにおいて)なるべくしてあげたいのだった。彼ら・彼女らの前途は明るいのだ。
 
20代に入ってまだ1年かそこらの彼女やその仲間たちを見て、それぞれにそれぞれの人生があることの不思議さを思う。この人たちとは、理由もなくたまたま人生の一部分が交差しただけ。1年もたてばもう2度と会わなくなるような人間も出てくるだろう。いったいそれって何なんだろうな。なんでもないんだろうけど。
 
仕事帰りに友人と飲んで、突然人の生き死にに関する回線をコネクトされる。僕はもう簡単に死んでしまう、あるいは簡単に死んでしまう知り合いが出てくる年齢になったのだ。いろんなことをぼんやりと考えてしまう。
 
あの娘がご傷心だという話も聞こえてきて、どの口が言うんだよとか思ってしまうくらいには冷たい奴だよな、僕はさ。でもみんなもっと平坦さを愛そうよ、て言いたい。ほんとうは。
 
 

0630(Fri)

子供は目の前しか見てないからこそ無限で、僕らはつい遠くを見てしまうからその有限さに気づいてしまうのかもしれない。
 
そういうことを友人に語りながら「有限」と言ったとき、僕はフィッツジェラルドが『マイ・ロスト・シティー』でエンパイア・ステート・ビルから見ていた景色のことを想像していたのだった。共有できるのは言葉までで(それだってどうなんだ、というのもあるけれど)、僕の頭の中の物事というのはいったいどこに「ある」んだろうなということを考えていた。

短歌も詠んだ。
etlivsfragment.hatenablog.com
 
あの人の誕生日だった。前日の話を思い出して、ウェットに将来のことを考えた。みんなには長生きしてほしい。鬱陶しい気候が本格化してきた今週はここまで。