重ねられた生活 20170930~1006

0930(Sat)

相変わらずクソみたいなことが仕事で降り続けていて、以前所属していた場所での8年間のクソの総量をこの4ヶ月で更新したような気分だ。顔の微妙な痙攣は続いている。もうしばらく様子を見てダメなようなら神経科に見てもらうつもりだ。
 
夜。肌寒さと「それでももう少し寒い方がいいよね」を共有して歩く。互いに微妙に調整が難航していたのだけれども、ようやく出かける日取りも決まった。お店、どこにしようかな。相手を知る過程が楽しい季節がまたやってくるとは思わなかった。「嫌になるほど誰かを知ることはもう2度と無い気がしてる」はずだったのに。もちろん、これが「嫌になるほど」までのことになるかは分からないけれど。他人にあまり興味がない者としては、ずいぶんと、ずいぶんだなと(なんなんだ
 

小沢健二 - さよならなんて云えないよ

(ほんと、つらく美しい曲だ…!)
 
それにしても、事が「普通に」進んでいっていることが奇妙に思える。(1回目の)大学生のとき以来?の普通さ。いや…今までのがおかしかったというか、特殊だっただけなんだけど。「君がいないことは君がいることだなあ」か…。普通の女の子との普通のかかわりのたびに君との日々あるいは君の在り方というものに畏怖に近い感情がわいてくる。だけど、そのコに惹かれていることだけはそれとは無関係に間違いないわけだから、そのこと自体と、それから当然相手のことを大事にしたい。「任せてください!何でも言ってください!」と笑う姿、似てなくて安心する。これはどういう安堵なんだろう。ほんと、自己嫌悪だ。
 
 

1001(Sun)

再び学生という身分になったからといって、勉学に勤しむ時間以外の何が変わったわけではない。気を引き締めて、身体に気をつけていきたい。うむ。
 
サニーデイ・サービスのベスト盤があって、アルバムはB-sideベストも含めて全部持ってるからといって買ってなかったんだけど、ついに手に入れた。

サニーデイ・サービス BEST 1995-2000

サニーデイ・サービス BEST 1995-2000

 
リマスタリングが素晴らしくて、とくに初期の音源は感動ものだ。それにしてもその後ソロ1stで収録されることになった「真昼のできごと」のザ・サニーデイなアレンジがすごくてくらくらしてしまう。曽我部さんはいつかサニーデイのことを「スノードームのようだった」という話をしていたけれど、まさにそんな感じ。最終的に『24時』から外れたのも分かる気がする。本当に。「96粒の涙」の『東京』を引きずったようなALT ver.もびっくりだ。これはこれで好きなんだけど、『愛と笑いの夜』がああいう作風になったことにもちゃんと意味があったんだなと当たり前のことを改めて感じる。『東京第2幕』みたいなことじゃなくって。さ。
 
 

1002(Mon)

終電で部屋に戻ると、年末に『Popcorn Ballads』のフィジカルリリース、そして夏の日比谷LiveのDVDも同時に出るとの報が。それだけで1日中蓄積し続けた憂鬱さが霧散していくようで、涙が出そうだった。楽しみだ。あの夜は本当に最高だったから、完全収録だといいな。
 
rose-records.jp
 
 

1003(Tue)

新宿から3駅分くらい歩いたんですけど…という話をムニャムニャとした心もちで聴きながら、「そういうのって良いよね」という言葉が無意識のうちに口をついていた。そのことが何だかたまらなく嫌だった。結論ありきでしゃべっている感じ。いや、無駄に歩くとかそういう試みをするっていうのは本当に良いと思うし、実際僕もたまにやる。まあ僕の場合は散歩が好きだからっていうのもあるんだけど…。それで何が嫌だったのかなと考えてみたら、きっと<自分>が話している感覚が無かったからなのかなと思った。それが役割であれなんであれ、言葉はちゃんと僕の中を通って出てきてほしいと思う。僕が発した言葉の責任は、僕がとるのだから。もちろん言葉は僕からしか出てこないのだけれども、僕を経由しない言葉というのが確かにあって…。
 
  

1004(Wed)

このコは、丁寧で親切で気のきく大変に良いコではあるんだけど、そういうところが好ましさの一番の理由ではなさそうだと思いいたる。ではどこにあるのか。このコはなんだかしらんが自分についてヘンな部分で「えーい」と全部を放り投げてしまうようなところがあって、そのマジカルな瞬間へのゆだね方というか、そういう無限と自由を感じるためのふるまいというのが僕には全然できないので、そこがとっても素敵だなと思うのだった。だからそういうことを「伝わるような言葉」で話した。
 
「いやー、そゆとこ、だめだよなあって思うんですよね。思うんですけど、でもまあいいかなあって」
「そこだよ笑 でも実際、それでいいと思うよ。僕は好きだな、その辺。そのままでいて欲しいもん」
「じゃあ、あおいさんが良いって言うので、このままでいますね~」
 
僕も自分のことについては寸前のところで放り投げるようなことをたまにするんだけれども、それでもそれはどちらかといえば「折れる」に近い感じだから、このコがやっていることとは根本的に違っている。執着のなさに憧れる。わたしのせかいを深化させていく方向と、軽やかさでもって内部を拡張していく方向とでは、どちらが遠くへ行けるのだろう。そういうことを考える。
 
 

1005(Thu)

しばらく前から見ていた『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』がシーズン5まで来た。どっかのエピソードで『Breaking Bad』の話が出ていたけれど、この作品もなかなかテンションが落ちなくてよいのでは、という感じ。 
 
行き帰りに読んでいる『告白』への集中力が少し落ちてきていて、読む速度が遅くなっている。ただでさえ遅いのに。内容的には記憶論へと差し掛かっていて非常に興味深い。
 

ですから、私が記憶を記憶する場合には、記憶そのものがそれ自体によって記憶それ自身に現存していますが、忘却を記憶する場合はこれに反し、記憶と忘却とが現存しています。すなわち、それによって私が忘却を記憶しているその記憶と、それを私が記憶している忘却とが現存するのです。しかし忘却とは記憶が欠けていることではありませんか。では忘却を記憶できるために、それはどのようなしかたで記憶に現存するのでしょうか。もし忘却が記憶に現存するならば、記憶することはできないはずではありませんか。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白Ⅱ』中公文庫 p.266

 
このアポリアに対する批判的考察とそれに対する反論のようなものも注釈には記されており、勉強になる。丁寧な仕事だ…。

 
 
録画した小沢健二の出演した『SONGS』は休みの日に大事に見て、考えようと思う。
 
 

1006(Fri)

雨が降った。気温がぐっと下がった。いいぞ、と思う。このまま寒くなってほしい(天気予報を見る限りそれはなさそうだが)
 

では、神よ、わが真の生命よ、私は何をしたらよいのでしょう。私はこの記憶と呼ばれる自分の力をもこえてゆかなければなりません。甘美な光にてましますあなたにいたるために、記憶をもこえてゆかなければなりません。何をあなたは私にむかっておっしゃるのでしょうか。そうだ、私はわが上にとどまりたもうあなたをめざし、わが心をとおして上昇し、記憶と呼ばれるこの自分の力をもこえてゆこう。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白Ⅱ』中公文庫 p.272

 
記憶を越えたところに神はいる。ゆえに神を見いだしそこに至るためには記憶すら越えてゆかなければならない。でも記憶にないならば、記憶の外にいる神を私たちはどうやって見出せばよいのか。それは神である、などと、どのように言えばいいのか。
 
例の記事のdisc9の項で、2013年ごろの日記を引用した。僕はその当時「わたしのせかいの君は君ではないと言えるのならば、僕は君が何であるかを知っていることになるのではないのか」ということを考えていたのだけれども、それと類似したものがここにはあるように思える。
 
それで…だれもがわたしのせかいに住むのだとするならば、<それ自体>を見ることはできないのではないか。一方で<それ自体>がなければそれぞれのわたしのせかいにおける<それ>は成り立たない以上、<それ>を<それ>たらしめるための視線がそこには注がれているはずで、それが「誰も見ていないところを神様が見ている」であり、「見ればそうなる」、そしてそれゆえ神様は瞬間であり永遠であり…書きながらこの話、最近したなと思った。戻ったら9/11の日記に書いてあった。1か月前か。
 
1か月前と言えば、君からきた謎のメッセージからひと月経つ。案の定その後音沙汰なし。僕の返事も空を舞っているに違いない。本当に不思議なひとだ。君にもどうか、そのままでいてほしい。そんなこんなで今週はここまで。人生が流転している感じがする。
 

サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc9

▼現時点での彼らのキャリアのうち「優しい」と形容できる作品があるとするならば、この1枚をおいて他にはないかもしれない。曽我部さんのソロ作などとの壁が融解したかのような曲もあることも含めて、 そういう意味では異質な作品といえるかもしれない。その一方で、果たして「サニーデイ・サービスらしい」というパブリック・イメージ通りの曲が並ぶのもこの作品なので面白いところである。
 

『Sunny』(2014)

Sunny

Sunny

 

日常へ。

▼2013年、14年ごろの自分は、年齢の節目が近づいていたこともあって何となくあせり始めていた。君とのおかしな関係も、何度目かの別れと出会いの折に、いままでは感じなかったような漠然とした不安を抱いていた。それでもちょうどこの頃がその関係に甘美な何かを感じとっているピークの季節だったのも確かで、だから僕は「道化」というモチーフをよく用い、君の実在性に疑義を投げかけたりしていた。そこから少しずつ、人生の領分を生活が侵食し始めて、君との関係だけではなく自らの歩みについても分裂気味な想いを抱かざるをえない状況に陥っていたような気がする。
 

仕事終わりに食事をして、終電へと送り届ける。改札の前で彼女は「それじゃあ、先に行ってるね」と言った。確かにそう言ったのだ。僕は感動のあまり言葉もなかった。それじゃあ、先に、行ってるね。先に、先に、先に。忙しさのあまり手放しかけていた敗北主義や「それでも」が熱を取り戻していくのが分かった。そう、「変わり続ける君を変わらず見ていたいよ」の季節。
僕らは次に会う日を約束して別れた。また他人に戻るんだなということを慎重に確認しながら。こうして別れたりつきあったりを繰り返している限り、永遠はないということを何度も何度も受け取り直すことができる。そのうちに、必ずや全ての時系列はフラットになり、瞬間が見えてくる。(2013.01.07)

 

他者とかかわっていく上で重要な認識の一つに時間についての捉え方、捕まえ方があるだろう。我々が共有できる(と信じている)のは場そのものであって、各々が時間に対して抱いている思いや、あるいは見ている景色はそれぞれ別のものである。ゆえに、たとえば流れや速度のような簡便なものを一つ取り上げたとしても(簡便であるからかもしれない)その強大なうねりのまえに、いったい目の前の人間と何を成せるのかと途方に暮れてしまう。だがその途方に暮れるという前提に立った上で、それでもなんとかせねばと立ち向かうところに他者と交わることの何らかの意味性が生まれるのであって、その認識の有無は本当に、大きい。あまりにも、大きすぎる。少なくとも僕にとっては大問題だ。つまりは、焦燥感にさいなまれた青年と繰り返しに苛立つ彼女との間の壁を僕らはいかにして乗り越えていくことができるのだろうということである。(2013.02.21)

 

君は僕を媒介とすることでなんとか関係修復の糸口を見出すし、あのこは僕を乱暴に扱うことでようやく立ち上がる。あの人はそんな僕を労わるそぶりを見せながら、隙を見せる。僕はそこに優しい言葉を選択して添える。心は灰色。恋は桃色。だが、僕がいなければいないで彼女たちはよくやるだろう。それでこそ道化だ。わずかばかりの僕と関係する人や、僕の目の前で起きている出来事は、すべては実在しないもので、それは世界認識の問題であり本当は僕の内側にあることだ。つまりはインナーキングダム。外の出来事がどうであろうと、本来的には知ったこっちゃない。僕が死ねば僕の世界は終わる(2013.12.01)

 

僕の最後の日々に、君は何を思うか。君は僕に理由をくれるが、君自身を僕は説明することができない。わたしのせかいにおける君は君自身ではない。君自身にたどりつく過程において、わたしのせかいそのものを見つめるというアプローチで獲得された「わたしのせかいにおける君が君自身ではない」という感覚は、君自身が何でないかのひとつの証明であるが、何でないかを証明するためには君自身が何であるかをどこかで理解している必要がある。思索し、内部と対話すること、過去に死んでいった自分の墓をあらすこと、受け取り直すこと、能動的な愛…それらすべての中に答はあるのだろう。僕は知っているはずだ。君自身が何であるかを。(2014.8.26)

 
だからこそ、この作品で描かれていた日常のあり方に心はなだめられたのである。

さみしくはないのさ 悲しくはないのさ ただ海の青さに ゆられていたいだけ
 
アビーロードごっこ」

  

Sunny Day Service - 愛し合い 感じ合い 眠り合う【official video】
 
 
そして生活の手前とその先にある日常へと回帰する中で「見る」ということへの憧憬は、徐々にオブセッションめいたものへと姿を変えていくことになる。ルドンの『わたし自身に』を読んだのもこのあたりだ。
 
 

夏は行ってしまうもの

▼そんな日常への回帰の中で、四季との付き合い方を考えていた。春は訪れるもので、夏は行ってしまうもの。秋は見つけるもので、冬は迎え入れるもの。そんなふうに今は考えるわけだけれども、その出発点になったのが<夏は行ってしまうもの>ということであった。その感覚を教えてくれたのは『愛と笑いの夜』に収録されていた「海岸行き」なのだけれども、その感覚を言語化してくれたのは本作に収録されている「夏は行ってしまった」だろう。
 

Sunny Day Service - 夏は行ってしまった【official video】
 
 

『PINK』(2011)

PINK

PINK

 
▼ところでこの分裂気味な2014年ごろの状況を語るに避けて通れないのは、やはりあの震災で。disc8の項でも書いたとおり震災は自分を宙ぶらりんな位置においてしまった出来事でもあって、そのことによる葛藤が君との関係以外で自らを引き裂いた一因になっているのは疑いようのないことだった。その心を落ち着かせた楽曲の1つに曽我部さんのソロ作『PINK』に収録されている「ねぇ、外は春だよ。」があった。そしてその『PINK』で鳴っていた「ふつうの女の子」は普通ではない君との日々の中で優しく響いていたし、「一週間分の愛」はその後の日常への回帰へとつながる音だったのは間違いなかった。そのことをここに記しておきたい。

『超越的漫画』(2013)

超越的漫画

超越的漫画

 

分裂する自我をつなぎとめるもの

ある種の人間にとって愛は病そのものである。そしてその愛に殉じるとき、愛は救いであり、恍惚である。だがそれは彼が病人であり、狂人であることの証でもある。愛は人を救い、愛は人を殺す。(2013.05.16)

 
▼この頃は偏執的だったように思えるし、「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」というのはG.K.チェスタトンの言葉だが、ある意味では、君との関係に理性で整合性を持たせようと何かにとりつかれたかのように過ごした日々は、確かにここでいう狂人のような感じだった。そこをぶちぬいて僕の社会性を担保してくれたのが2013年の「バカばっかり」だった。これがあったから、その後の『Sunny』を日常として受け取れた。
 

曽我部恵一 - バカばっかり【official video】
 
▼いずれにしてもこの頃必要だったのはきっと日常の言葉づかいであり、「日々が続いていく」という確信だったのかもしれない。だからこそ、彼らの音楽が素朴な言葉で鳴っていたという事実はとても重要なことだった。
 

「お帰り。」「…どうして、お帰りなの?」(2014.9.17)

一方で君はこんなにも簡単に僕を瞬間の切れ端へと導いていくのだった。
 

Sunny Day Service - One Day【official video】
 
 
etlivsfragment.hatenablog.com