サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc3

前作とうってかわって不機嫌なギターストロークから始まる今作は、名曲ぞろいのキャッチーでコマーシャルな1枚だ。このころの曽我部さんは多産状態に入っていたようで、今作と傑作シングル「恋人の部屋」、それから4枚目のフルアルバムが同じ年にリリースされている。今作の制作にあたって念頭にあったのがウォン・カーウァイの『天使の涙』(ジャケットも香港である!)とのこと。うん、雰囲気出てるね。

『愛と笑いの夜』(1997)

愛と笑いの夜

愛と笑いの夜

 

濃密な空気をはらんだ主題

▼この作品については『愛と笑いの夜』という主題がピッタリ過ぎて、個人的な話があまり入り込んでいかない。ほとんどシームレスに繋がれた10曲が、コンセプトアルバムというよりはむしろある種の「塊」としてそこにあり、濃密な空気を放っているからなのかもしれない。タイトルはヘンリー・ミラーの本から拝借したのだという。だからというわけではないと思うが、サニーデイのカタログの中でももっともセクシーな作品になっている。
 
 

バンドの季節を押し上げる才能の発露

▼オープナーの「忘れてしまおう」の歌詞はすごいなと聴くたびに思う。終わったばかりの恋の風景に重ねて、

すると海に真っ赤な太陽がザブンと飛び込んで
突然の冷たい水しぶきが目を覚まさせる
ここがどこかなんて 忘れてしまおう
 
(「忘れてしまおう」)

なんて紡がれる。これはもう才能だよなあとため息。ほんとすごい。悔しさすら覚える。
 
 
▼そして収録されたシングル2曲、「白い恋人」「サマー・ソルジャー」が強い。特に後者。6分という長さでありながらも当時から一分の隙もない完璧な曲だなあと思っていた。いわゆる「太陽のせい」ということを「愛し合う二人 はにかんで なんにもしゃべらず 見つめ合う それから先は… hey hey hey」なんてロマンティックに溶け出させるだなんて。これまた脱帽である。君との関係が若かったころは、まだそのあり方が定まっていなかったからか余白がずいぶん多かった。でもそれはこうやって季節に溶け出させればいいんだと、よく聴いてはそのヒントをもらったものだった。 
 

(PV) サニーデイ・サービス - サマーソルジャー
 
 

愛と笑いの夜はどこにあるのか

▼けれどそれだけではなく、これは瞬間についての歌なのだなと今なら思える。大仰なサウンドで盛り上げておきながら「八月の小さな冗談と真夏の重い病 天気のせいそれは暑さのせい それから先は…」なんてさらっとおいていく。感情がばっと盛り上がる瞬間、そしてその後に訪れるであろう寂しさのことがよぎるその瞬間。ここにあるのは、そうした瞬間の積み重ねの肯定以外のなにものでもないでしょう?そしてラストの「海岸行き」では「すぐに秋がきて 海にはだれもいなくなる」と言ってみせたりする。日々の中に愛と笑いの夜はあり、愛と笑いの夜の中に倦怠と絶頂の瞬間はある。そういうことを言ってもらっているような気がして、満たされた気分になる。
 
 
▼ところで「週末」「サマー・ソルジャー」「海岸行き」という終盤の流れがとても好きなのだけれども、先日の日比谷野音でその流れで本編を締めくくったの、最高だったな…!

ゆっくりとだけど確かに穏やかに時は過ぎる
気づいたらもうこんなとこだなんて
僕なんか思ってしまう
寄せては返す波のように土曜日へと走る車の中
 
(「週末」)

こんなロマンティックに「金曜日」を表現する音楽を僕は他に知らない。そしてそれは単なる週末ではなく、人生の彼岸かのように響いてくる。なんだか聴いていると嫉妬ばかりしてしまうような、それでも結局はそれを通り越して恍惚としてしまうような、そんな1枚だ。
 

サニーデイ・サービス「白い恋人」
 
 
etlivsfragment.hatenablog.com
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サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc2

大学生の当時、好きだった女の子に思いを伝えることになる前だったかそれとも後だったか。その頃に聴いたこの作品から僕はその後の生き方をも左右してしまうような、とても大事なものを受け取ったように思う。それは気取ること、かっこつけることの重要性だ。ラレーの広告に「身分相応というけれど 人生には気取ることも大切なんだ。」というコピーがあって、まったくその通りだよなと思えるようになったのは、この作品があったからだ。

…ちなみにその好きだった子(たぬき顔の心の優しい子だった)にはばっちりとフラれ、部屋に帰ってえづいてリアルに2~3日まともに食事がのどを通らなかった。そういう経験があって良かったと、無責任にそう思う。まあ自分が自分の人生に対して責任をとったことなんてないんだけど。
 

『東京』(1996)

東京

東京

 

恋人たちの風景

▼オシャレをするのは何のため?というものには、人それぞれの答えがあるとは思う。僕にとってはその時々の「君」のためなのだった。君はいつだってサイコーにかわいくて綺麗だから、せめて君が恥ずかしくないように隣にありたい、とそんなふうに思っている。最近じゃ1周まわった感もあるけれど、10年くらい前はかっこつけることが悪というか、そういうのはちょっと…という風潮が広がっていたように記憶している。そんな折、この『東京』が鳴らしていた気取った言葉と白昼夢のようなどこかにありそうでどこにもない原風景。そこから僕は他でもない「君」のためにかっこよくあろうとするその心意気を受け取り、それはとても粋で素敵だなと思った。その頃から「恋人たちの風景」というものが好きになった。恋人は彼あるいは彼女の前でこそ最高に素敵であろうとするはずで、その光景はどうしたって美しいに決まっているのだから。
 
▼同時にその頃は、僕はエターナルラブ、あるいはエターナルラブの称揚に対して敵意を抱いていた頃でもあり、「真っ赤な太陽」における「歩き疲れたら そこの珈琲屋で 休むふりして他の女の子見るんだ」というラインを好んでいた。永遠はなく、可能世界がそこかしこに広がっては手ぐすねをひいている。でも、それを感じられるのは、大好きな君がいるからなんだ…。この頃の曽我部さんの声というのは本当に美しく、このようなまどろみの風景…誰にでもあるはずの、他の誰かの映像的記憶と心情の移ろいを表現するにはピッタリであった。


サニーデイ・サービス「恋におちたら」
 
 

『東京』という作品と「東京」のこと。

▼東京に初めて行ったのが15の頃。それは自分の意志とは無関係のことだったから、別に東京でなくてもいいようなことばかりして過ごしてしまったのだった。だからその後就職を機に上京するまでの間、東京というもののイメージすらもてないような、そんな人生を歩んでいた。それでもこのアルバムが自分の人生の横でちゃんと鳴り続けていてくれていたからこそ、上京してからの日々に様々な意味ができたのだと思う。僕にとっての「東京」は、住んでみてようやく「トーキョー」へと変わったものであり、それでもその前もその後もずっと『東京』として鳴り続けている。
 
 
▼ちなみにこのアートワークにも思い入れがある。桜という花が大事なものになったのは君と出会ってからのことで。まあそれはまた別の話ではあるのだが、こじつけとはいえ君に桜が関係していたことも、ずっと傍らにあったこの作品に桜があしらわれていたことも、すべて繋がっていたのだなとその受け取りなおしに感慨を深くしたものだった。なおこの『東京』には「東京」「桜」という歌詞は出てこない。なんて素晴らしい事実…!
  
  

それでも僕らは恋をする

▼彼らのバンドとしての最高傑作は?という質問になら別の作品を挙げるが、これが僕の人生のサウンドトラックなのだという意味において、とてもとても大切な作品だ。少なくとも、ラストの「コーヒーと恋愛」で「娘さんたち気をつけな コーヒーの飲み過ぎにゃ」と歌われるたびに恋に恋する娘さんたちの気持ちになってしまうほどにはね。これを聴いて過ごしたおかげもあって、僕はずいぶんとまっとうに大学生だったのだなと思う。憂鬱な満足感がそこには確かにあった。そしてそれは、今もまだ続いているのだ。


(PV)サニーデイ・サービス - 青春狂走曲
 
僕らの日々はあのころと変わらず、ずっとタフだね。いまんとこはまあ、そんなかんじなんだ。