サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc10

▼『本日は晴天なり』と『Sunny』があの頃のサニーデイ・サービスの10年後の姿ならば、この『DANCE TO YOU』は解散前のラストアルバム『LOVE ALBUM』の正当な「次」だと感じる。その制作の状況も含めて。現役のバンドなんだと感じさせる音像、楽曲。時代とシンクロした、本当に素晴らしい作品なのだ。
 
 
▼でも…今回のこのエントリがこの一連の記述の最後を飾ることになる。作品の魅力については方々で語られているからそちらに任せよう(もちろん今までだってそうだったのだが…)。disc1の項で「自分のために、盛大な自分語りをはじめていこう。」と言ってこれを始めたのだ。最後はそれに徹するのも悪くないだろう。
 
 

『DANCE TO YOU』(2016)

DANCE TO YOU

DANCE TO YOU

 
 

僕の最後の日々

 
▼先行シングルとして「苺畑でつかまえて」がリリースされたのが2016年の1月。君との関係は、この2016年から2017年にかけてがターニングポイントになるのは明らかだった。それはずっと以前から決められていたものでもあった。もちろん2人の間にその捉え方への温度差はあっただろう。いずれにしても僕は、君に何かをしてあげられるのはこの1年が最後になるかもしれないとそう感じていて、とにかく悔いのないように過ごそうと思っていた。君のためにいろんなことを勉強して、行動した。同時にそれは僕がずっと考えていた「美しく終わらせる」こと、いよいよその時が近づいていることをも意味していた。
 

Sunny Day Service - 苺畑でつかまえて【official video】

遠くまで続くメモリー 未来にさぁ色をつけて 
目を細めて太陽を待つ つまりこれは愛の星

この8年に及んだ、永遠はないことのアナロジーを営む共犯関係。それは愛の星での出来事。ここにとどまることはできない。僕らはそれぞれにそれぞれの星へ帰らなければならないのだ。あるいは一緒に同じ宇宙船に乗りこむこともできたのかもしれないのだけれども。
 
 
▼予定通りではなかったが、予感通りにその年の12月についに僕もキルケゴールよろしく「大地震」というやつを経験することになる。自分の内側で育てていたあのおぞましく黒い塊よ!それで…一方的に終わりを突き付けて…結果的に2人はいったんの終焉を迎えることになる。それでも僕らは、年が明けたのちに美しい花とあの人の計らいを媒介に再び出逢いなおすことになる。もっと美しく終わらせ、2人の日々を確かに歴史とするためだけに。その傍らで『DANCE TO YOU』はずっと鳴りつづけていた。そう、最後の季節はダンスのようなものだった。
 

新しい季節は、冗談みたいだ。僕の傷も、流れ出す血も、そこに投げかけられる言葉たちも、どれもこれもこんなにもリアルなのに、僕が見ている光景だけがすっぽりと現実感を失っている。僕は思う。やはりこの関係には疑義を投げかけるしかないと。まやかし、蜃気楼、虚構。表現はなんでもいいが、今僕が飲み込まれているこの時間が、そのまま僕の望む「幸福な結末」に着地するとはどうしても思えない。むしろ、美しく終わらせるためにもう一度共犯関係を結びなおそうと、そうしているようにさえ思える。もしそうならば、8年はやはり長かったのだ。ただその1点においてのみ、僕らが意を同じにできたのであれば、それはそれで甘美な響きに思える。
 
そう遠くない未来にこの季節は終わる。次がどんな季節になるのか、暑いのか、寒いのか、晴れるのか、曇っているのか…それは分からないけれど、僕にはそれを受け止める義務がある。いずれにしても、美しく終われば、僕らは僕らの歴史に残るだろう。「もっと綺麗になって、そうしたらまた会いに来るね」「そのままでいいから、そのままがいいから、ずっとそばにいてほしい」現実感を失えばこそ、築き上げられる城もある。そのとき僕らの間にある言葉は事実だろうか、それとも真実だろうか。あるいは。(2017.2.14)

 

Sunny Day Service - セツナ【official video】

きみはまるで静かな炎みたい
ぼくの総てを燃やし尽くそうとする

君は真の意味において、そのことに無自覚だった。少なくとも僕にはそう見えた。だから僕は君を愛したのだと思う。

また今日もいつものところで待ってる セツナの恋人

それでも確かに君は刹那の恋人ではあった。だからこそ僕は、君を「刹那」ではなく「瞬間」に留め置こうとした。あるいは君こそが「瞬間への導き手」だと誤解することで…。
 
 
▼美しく終わらせるためだけの再会後、蜜月のひと月を経て最後の逢瀬についての契りが弱々しく果たされた末に、 この8年は静かに終わることになる。

人間の関係というのは劇的に始まったからといって劇的に終わらなければならないということはないようだ。頼りない逢瀬の契りは5日遅れでふらふらと不明瞭に始まり、そのまま曖昧に果たされた。僕らは交わす言葉も少なに、そしてありがとう・さようなら・元気でといった類の挨拶もなく、居心地の悪さだけを高めていった。意味があり過ぎて意味を失った感情がジャンプカットのようなつぎはぎの会話とともにぼろぼろと床に散らばっている。そんなふうにして僕らを置き去りにした時間だけが終幕へと加速していく。これはいったい何度目の別れとなるのだろうか。それでも、今度こそ本当に終わりなのだと感じる。終わるはずではなかったタイミングで終わってしまったものを、きちんと終わらせるためにあの日君は戻ってきた。そして2人で知らないふりをしながらこの日を目指して歩いていたのだ。これが映画なら、とても美しく撮ることができただろうと思う。(2017.3.20)

映画といえば、僕はよく君との関係を『気狂いピエロ』の2人に重ね合わせていた。それは甘美で恥ずべき陶酔だとは思うけれども、劇中でアンナがベルモンド扮するフェルディナンを名前ではなく「ピエロ」と呼び続けたことと、君がいつの日からかその日の気分で僕のことを本名とは違ういろいろな名で呼んでいたことなど、あまりにも近似が多かったのだから仕様がない。映画のラストで2人とも死んでしまうでしょう?その末にランボーが朗読されて永遠が見つかるわけだけれど、僕らの日々もそうなるのだと今でもどこかで信じている。我ながら愚かだなと思いながら。
 
 

これからでさえも、最後の日々のはしためであり


Sunny Day Service - 桜 super love【official video】 

きみがいないことは きみがいることだなぁ
春の恋 舞い踊れ あの娘を連れてこい

 
▼僕の最後の日々から現在に至るまでこの曲はずっと意味を持ち続けている。終幕のその後、あの娘をはじめとして3人が僕の前に連れてこられている。教会の祈りのうちで最愛の存在と再会し続けていたアウグスティヌス、そして追憶は過去で反復は未来だとしたキルケゴールレギーネとの婚約破棄については言うに及ばずだ)。それらと同じことが僕には起こっている。君がいなくなってから、君の存在は僕の中でようやく固定され、受け取りなおすことができるようになった。君がいないから、君がいるのだ。この曲のタイトルは「桜 super love」である。 そう、2人が最後に別れたのは、桜が始まる季節だった。そして何よりも君の名前は―。
 
 
▼アルバムはその後「ベン・ワットを聴いていた」で「さよならぼくのBABY バイバイ」と歌われて幕を閉じる。それでもオープナー「I'm a boy」の歌いだしは「きみのことが忘れられない なにをしても手につかない」である。この円環。かつてどこにも辿りつかない旅を歌い、まどろみの迷宮を作り上げたその様が重なる。果たして僕はこの間、愛に殉じることで、何を見つけたのだろうか。
 
 
▼この10年と少しは、ずっと傍らでサニーデイの音楽が鳴り続けていたあまりに出来過ぎた物語であった。そしてそれは僕の中で今ようやく歴史になろうとしている。それが果たされれば、存在しなかった君と僕との日々が確からしさをうっすらとはらんでくるはずだ。そうしてそれらの日々に意味が吹きこまれれば、鎮魂としては申し分ないだろう。僕はこの先も生きていかなければならないのだ。大切な音楽と、そして君とともに。僕の憂鬱な日々にサニーデイ・サービスがいてくれてよかった。
 
 
 
etlivsfragment.hatenablog.com
 
 

2017年10月9日の断片日記

▼学生の頃に過ごした街に来た。
 
 
▼最初どういうつもりだったかというと、件の10年の記事が次で終わるから、じゃあその10年と少しの始まりにあたる頃に過ごした景色をあらためて見ておいたほうがいいのでは、という控えめに言っても大変にエモい理由がそこにはあって。それで世の中も休日(しかも連休じゃないか!)だってことを完全に忘れて、いつも通り悠々と券売機に向かったら立席オンリーの表示…立席ってそれは席なのか…あいやでも立ち見席、て言うもんね…。そもそも自宅の最寄り駅からずっと立って来たのにさ…ということでトータル3時間ほど座ることなく移動。まあでも普段と違う新幹線の乗り方が出来たので良かったと思うことにする。(だが実は帰りもそうだったので、なんだかなあという感じである)
 
 
▼かの地の駅に降り立ったときには当初の心もちはどこかへ消えていて(それでもよく行ったレコードショップをのぞきには行った。無くなっていたけれど。)、その代わりにやはり将来住むならまたこの地なのだろうかとぼんやりと考えていた。昼時でどこの店も長蛇の列だったので食事は早々にあきらめる。まあそれ自体はどうってことないことだ。みんなの合格祈願と自分の学業についての祈りを神社で済ませたあと、ぐんぐんと歩く。姿勢よく、空気をたくさん吸って、吐いて。
 
 
▼大きめの公園に出る。住んでいた頃には一度も来たことがない場所だ。トーキョーに出て、どこからを「遠い」と感じるかという距離の感覚が確実に変わったと思う。噴水の近くで恋人たちが身を寄せあい、何事かを語っている。その後ろをティーンネイジャーたちがスケボーや自転車で通り過ぎて行く。開けた場所に出て、ベンチに座って風を感じる。たくさんの家族が芝生の上で思い思いに過ごしている。スポーツ…野球よりサッカーの方が優勢だろうか。遠くにはバスケットに興じる少し強面のお兄さんたちが見える。お兄さんって言っても、きっと僕より年下なのだろう。ふとこの街にはプロのサッカーチームも野球チームもバスケットチームもあるということを思い出す。
 
 
▼バドミントンに興じる3人組の女の子のうち、ひとりだけ明らかに頑張ってる女の子がいて、その真っ赤な紅は向こうでよく見るよ、と心の中で話しかける。その子は途中で抜けてはスマホシャトルが舞う円形との間を行ったり来たりしていた。女の子といえば、縄跳びをしている子が多かったかな。男の子で縄跳びをしている子はいなかった。不思議だ。そしてやはりちびっこの動きはむちゃくちゃで、最高だ。
 
 
▼子どもを育てることになったら…ということを考えて、やはりここはとても良い場所だというふうに感じた。でも…いくらネットでフラット化が進んだとはいえ、ここは昔からポップカルチャーの空気が希薄だ。あの頃の僕の苦しみの一端はそこにあって、それでトーキョーに出てから強く感じたのは「東京」に住んでいる人間と「トーキョー」にしか住むことのできない人間との圧倒的な情報量の差だった。そこにコンプレックスめいたものは今更特にない。ただ単に、浴びているものに絶対的な差があれば、それはもう形作られる人間自体が変わってくる。「東京」に住めばたぶん「トーキョー」が見えないし、逆もまたしかりだろう。まだ見ぬその人は、そのことをどう感じるのだろうか。
 
 
▼文化が都市をつくる。そう小沢健二は語っていて、僕はそれを最初聞いたときに大学の文系学部縮小関連の話題のことを思い出していたのだった。あの話題は本当に悲しいものだった。そのことがもう一度学生になることを間接的に後押ししたところがあるかもしれない。哀しくて悔しくて、この野郎と思った。文化と芸術を自分の手でしっかり抱きしめておかなければならないと思った。自分が生活に浸食されず、人生を歩もうとするためにも。
 
 
▼街や都市の表情を見る。そこには確かに生活がある。でもその生活の場である街や都市は、文化で成り立っている。今住んでいる街も、学生時代を過ごした街も、そして無くなってしまったあの街も、見ればそこには文化があることが分かるし、分かった。それはきっと人間だって同じなのではないか。どの街に住んで、どんな人たちとかかわって、どんな人と恋に落ちるのか。いうなればそれは全て文化の選択だ。教養や知識や経験は、それら文化の選択に自由であるためのものなのだ。そういう極端なことを考えはじめたころ、「帰ろう」と思った。文化のない街ができ始めている―それは予感でしかない。仮にそれが本当にそうだとしても、それはきっと時代や人々の要請であるのだろうから否定できるものではない。でも、自分は選択をしたい。自由であると、信じられる程度には。
 
 

新幹線の車窓から地方都市の夜の風景を見る。明かりがついているビルはもとより、寝静まって明かりの落ちた家々も、すべて営みだなと感じる。その途方もなさに気の遠くなるような思いと甘美な憂鬱さがやってきて、最終的には愛おしさを覚える。旅の何よりもこの時間を好んでいるかもしれない。(2017.5.4)

帰りの新幹線でこのときと同じ感慨を抱いた。でもその日はこのときよりももっと「明るさ」というものに感じるものがあった。昔はあまり思わなかったけれど、もしかしたら僕は寂しいのかなとか疲れてるのかなとか思うことが増えた。いや、昔から思っていたのかもしれない。忘れていくものだから…。「かわいそうな人」と僕を呼ぶあの人と君の声が耳奥に。口のはた、ゆがめてしまう。立席仲間(そんなものいない)に気づかれないように窓の外を強めに見て、1日を反芻する。学生時代に通い詰めた書店は今では違うチェーン店が入っていて、品ぞろえもずいぶんと変わっていた。別フロアには表参道にある店のポップアップストアが出ていてたくさんの人が並んでいた。僕は自分が思った「帰ろう」の自然さを思い出していた。
 
 
▼あの人から連絡が来ていたので返事をする。そのコが話していたあることを思い出してそれに関してメッセージを送る。それでも新幹線を降り、丸ノ内線に乗り換えるころには「今度会ったら話そう」と思ってぜんぶ投げ出してしまった。こういうふうに無邪気に明日が来ることを信じている様が意識の上にのぼってくると決まってこれまでの僕とこれからの僕が離れて行く感じがして居心地の悪さを覚えるのだった。
 
 
▼最寄駅に降り立つ。今日のこれが全部他人の夢だったらいいのになと改札を抜ける。文化を感じながら家路に着いた。