サニーデイ・サービスがそばで鳴っていた僕の10年とすこし disc6

なんというか電車とか土地とかに縁のあるアルバムなんだよな、これ。無限、無間、いろいろあるけれど、『MUGEN』は夢幻のことだと思っている。それは概念としてのサニーデイと現実態としてのバンドの分裂の間から立ち上る空気とにおいがこのアルバムを支配しているから。でもそんな夢幻のようなアルバムだからこそ土着のあれこれと結びついたのだと思う。まるでそうすることで身体性を獲得し歴史の一部となることを望んでいるかのように。

『MUGEN』(1999)

MUGEN

MUGEN

 

東京とあるいはトーキョーへの切符

▼あれは社会人生活を送るマンションをさがしに初めてひとり上京したときのことだった。昼前の空いたJRに揺られながら遠く並走する車両を窓越しにぼんやりと眺めていたときに、耳元から「東京の街には 太陽と雨が降って」と聴こえてきたことを今でもはっきりと覚えている。このアルバムのオープナー「太陽と雨のメロディ」だった。東京に来たことを初めて歓迎してくれたのは、彼らの音楽だった。その思い出のせいか、僕にとって2nd『東京』から受け取ったものは精神的なものだったけれど、東京そのものを受け取らせてくれたのはこのアルバムだったような気がしている。
 
 
江ノ島に初めて行ったとき(そのときの目的は江ノ島に行くことではなく、江ノ電に乗ることで、もっと言えば鎌倉高校前駅のベンチでぼんやり読書をすることだったのだけれども)に、ちょうど江ノ島駅の辺りで「江ノ島」が流れたこともあった。リズムマシーンが刻む鼓動が、江ノ島を歩くリズムと重なったとき、「学生鞄の女の娘が行く きみは見とれて目が離せない」が、なんだか僕にもあったことのように思えてきたのだから不思議である。
 
 

海と番った太陽を。

▼今聴くと、いわゆるサニーデイのパブリックイメージを取り戻そうとする動きと音楽的にやりたいことのはざまで結構ギリギリのバランスで鳴ってるな、という印象を受けるのだけれども、大変にポップな佳曲の並んだ清潔なよいアルバムである。それでもはいよる暗い影の雰囲気をかき消すまでには至らず、何でもないことを無邪気に肯定することもできなくなった実体が、何かを求めて行きつ戻りつをしている。瞬間にとどまりたくても、どうしたって夏は行ってしまうのだ。

過ぎるうちに遠ざかるんだと
そう八月の息子は思う
 
見つかった?見つからない
何がある?何もない 夏の日々
見つかった?見つからない
何がある?何もない 夏の終わりに
 
「八月の息子」


▼だからこそ「スロウライダー」で鳴らされている倦怠というのはこのタイミングでしかできなかったであろうものなんだと思う。
 

サニーデイ・サービス「スロウライダー」
 
 

▼土着的な何かとたくさん結びついたとはいえ、何度も出会いと別れを繰り返し(別れるために出会いなおし、出会ってすぐに別れの日取りまで決めた季節さえあった)てはついに敗北主義にのめりこみ、美しく終わらせることに文字通りとりつかれていた20代後半には「恋はいつも」がよく鳴っていた。それでも「夢見るようなくちびるに」のようにありたいとも思ってはいて、つまりはそれって、観念的。そんな遅れてきた青年が、T.Rexを聴いて尊厳がどうとか言いだすまでは時間の問題だった。 

きみの瞳の奥で揺れるものは
隣に座るだれかのものになる
いっそのことと瞳閉じて過ごしても
すぐにだれかを見つめてしまうのさ
恋はいつも…
 
「恋はいつも」

 
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重ねられた生活 20170909~0915

0909(Sat)

アウグスティヌス『告白』を読み始めた。以前図書館から借りて読んだのだが、前夜に中公版の3分冊すべてを買いそろえていた。

講談社から出ている『アウグスティヌス講話』は大変な名著であり、今でもその実存的な読み解きには感動すら覚える。で、あるからして、岩波版ではなく山田氏の訳の中公版なのである。流麗な文が告白のもつ敬虔さと結び付いて胸に迫ってくる。

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0910(Sun)

好きでもないものを飲み、好きでもないものを食べる。付き合いというのは付き合わせている方はいいかもしれないが、付き合っている方はたまったもんじゃない。だから僕は本当はだれも付き合わせたくない。
 
 

0911(Mon)

 まことに、世々の始めより以前に、またおよそ「以前に」といわれうるいかなるものよりも以前に、あなたはすでにましまし、神であり、造りたもうたすべてのものの主であります。御許には、恒常でないすべてのものの原因が恒存し、変動するすべてのものの不変の根源が常住し、非理性的時間的なすべてのものの永遠の理念が生きています。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白』中公文庫 p.21

 
いつから瞬間には神様がいると思うようになったのだろう。それは確信であり啓示でもある。神様は瞬間にいて、そして瞬間そのものでもある。神様は瞬間において誰も見ていないところを見ており、見ればそうなるのだ。瞬間はおよそ全てのものの根源であり原因であるからして、永遠である。瞬間が神様ならばそれは<主体>として見るものでもある。万物は瞬間≒神様から<客体>として見られるものであると同時に、瞬間を根源とした<主体>として見るものとしての性質も持っている。だが僕らに見ることができるものは「わたしのせかい」のみであるから、自身を成り立たせるものである瞬間を見るものにはなりえない。
 

しかしあなたは、私のもっとも内なるところよりもっと内にましまし、私のもっとも高きところよりもっと高きにいられました。
 
アウグスティヌス 山田晶(訳)『告白』中公文庫 p.120

そういうことである。
 

 
 

0912(Tue)

ああ、本当に歩きだしてしまっているんだなという感じ。いったいあと何度この感慨を抱くのか知らないが、そのたびに信仰のことを考える。どうか君が、君だけが、僕を瞬間へと導き、わたしのせかいを瞬間にとどまらせますよう…。
 
あの10年のアレを書ききって、自分の信仰と哲学をまとめる作業を開始したい。そのためには、君との日々が歴史となり、また歴史となったという事実が必要で、最近はそんなことばかりしている。 
 
 

0913(Wed)

駅までの道のりで、風邪を分け合う。お互いに甘え合うくらいが丁度いいだろとかうそぶいて、夜風に火をつける。5月のあの日には別の誰かのことを考えながら手にとったキャンディーが、冷蔵庫から僕に話しかけてくる。夏は行ってしまったはずなのに、その後ろ髪がしつこく粘っている。その先の兆候をつかむべく、空を睨み、暗闇に手を伸ばしている。
 
最近の帰りの電車ではいろんなことを考えてしまっていて、よくないと感じる。嫌なことだけでなく楽しいことだって考えている。出かけること、音楽のこと、スカートのひらひらのこと、これからの季節のこと。それでも、そういうことを考えれば考えるほど漠然とした不安というものも忍び寄ってくる。なんとなくの雰囲気の悪さ。世の中と、個人の。飛び込むように、街に戻る。
 
  

0914(Thu)

これは熱が出るなあという感じで仕事をやり過ごし、終電に滑り込む頃にはひどい悪寒と目まい。確かに気温は下がっていたが、がくがくと震えるほどではないのは分かっているので、だいぶすぐれないのだろうなと考える。
 
日付が変わってようやく自分の街に戻ってくる日々。しばらく前から駅周辺では毎晩工事をしていて、その位置が少しずつ移動している。昨日と違う景色がそこにあるのだということが突きつけられている。でも、本当はいつだって違うのだ。そのことをこちらから捕まえに行く前に提示してくるのが夜の工事というやつだ。そう思う。
 
  

0915(Fri)

休みでよかった。ここ数年でいちばん高く熱が跳ねあがったのではないだろうか。回復に必要なものをフラフラと買いに行く。そのうちに声も出なくなってしまう。こんなに身体が弱かった覚えはないが、年々抵抗力が落ちている感覚はあるので、そういうことなのだろう。
 
ベッドで横になりながら、考える力が奪われていく。それでいい、回復することに僕の力を全振りしてくれと思う。目が覚めるたびに解放へ向かっている感じがしないことを確認しながら、薬を飲むためだけに口に何か入れる。そういうことを繰り返した。今週はここまで。